þ しも仙石線が買収されなかったら

1986. 8. 13. 大賀 寿郎
1990. 2. 11.  改訂
2000. 3. 18.  再改訂

    宮城電鉄、その積極性と先進性

       歴史に「もしも」は禁句だそうであるが、趣味の世界ではフィクションを考えるの は楽しいことである。文学などはこのような楽しみの上に成立しているものであろう。
       仙台と石巻を結ぶJR仙石線は2000年3月11日に仙台地下線が完成し、駅西の青 葉通りに進出した。ここで、「もしも」をこのJR仙石線に適用して、空想を楽しん でみたい。

       仙台と石巻とを結ぶJR仙石線は、1944年に戦時特別措置で国に買収されるまで は「宮城電鉄」という私鉄であった。1925年に西塩釜まで開業し、1928年に50km余 りの本線が全通した。愛称は「宮電」だったという。
       その施設の立派であったことは語り草になっている。仙台駅とその付近の280mほ どは東北本線の下へ入る地下線であり、東京地下鉄の上野ー浅草間開通に先立つこと 2年、実に日本最初の地下鉄道であった。駅西の繁華街へ地下線を延長することは、 宮城電鉄関係者の見果てぬ夢であったにちがいない。
       電車線電圧はその後日本の一流電鉄の標準となった1500ボルトであった。日本最 初の1500ボルト電化鉄道となった大阪鉄道・吉野鉄道(現近鉄南大阪線・吉野線) に遅れることわずか2年であり、鉄道省での1500ボルト採用(1926年、東海道本線 東京ー小田原間)に先行していた。架線柱は高級な防食処理を施された鉄柱で、多く がつい最近まで使用されていた。シンプルカテナリイ架線、色灯信号、時速50kmで 進入できる10番両開き分岐、KS-15相当の頑丈な鉄橋、一部とはいえ50kgレールと 6ツ目の継ぎ目板の採用・・・いずれも当時の最先端の施設というべきである。さら に仙台−西塩釜間の大部分と赤井−石巻間には複線用地が確保されていた。
       車両も意欲的であった。初期の木造車からシングルルーフであり(仙台地下駅のト ンネルの高さの制約と車内の明朗さとの両立のためという)、また最初の鋼鉄製車の 発注が1927年というのは早い方である。観光輸送には特に熱心で、ガイドガールの 乗務、熱い紅茶のサービス(小田急より四半世紀早い!)、さらにモテハ220形とい う木造展望車が走り、鋼製展望車の計画もあったという。1936年から導入されたセ ミクロスシート車モハ801形は、両運転台の16メートル車ながら車体幅は大都市私 鉄並みの2700ミリであり、地上施設の質の高さがうかがわれる。窓の広い軽快な電 車であり、私も中学3年の修学旅行で晩年の姿を見て強い印象を受けた。
       こうした積極姿勢には、京浜急行に通ずるものが感じられる。京浜急行(京浜電鉄、 湘南電鉄)もわが国最初の1435mm軌間の採用、本格的鋼製車の早期導入(1924年)な ど進取の精神に富んだ私鉄であった。かのモハ801 形も同時代の湘南電鉄の電車に 通じる明朗、軽快な雰囲気をもっている。


    国鉄買収による停滞

       宮城電鉄も太平洋戦争の被害者だったというべきであろう。モハ801は24両建造 の計画があったが、戦時統制で11両に終わった。しかしこれは序の口であった。第 一級の積極性を持つ一流私鉄が、戦時買収によって国鉄仙石線という、単なる地方支 線になり下がってしまったのである。
       私が初めて乗った1956年の仙石線は、東京で働き疲れたモハ11系17メートル国 電の天下であった。およそ色気のないがらくた電車であり、しかも線路の手入れが不 良のため揺れがひどかった。しかし前述のモハ801形の残党の存在とともに、電車の 行先札のデザインがしゃれていたのが忘れがたい思い出である。石巻行は波の模様、 仙台行は竹の模様であり、東塩釜行には舟のシルエットがついていた。現代の103形 の方向幕にくらべはるかに見やすいものであった。
       1960年代になっても電車の色が派手な赤と黄色にかわっただけで、やはりモハ11 系の4連が幅をきかせていた。友人と、いまにこの線も通称ロクサン形、あの戦時設 計のモハ73系バラック電車が氾濫するぞと話したが、この予言はほどなく的中した。 東京、関西地区でお役後免となった外板の歪んだモハ73系の大群の中に、戦前の関 西で人気車両だったモハ51系クロスシート車が混じっていたのが、わずかな救いで あったろうか。
       現在の仙石線は青いクモハ103系に統一されている。更新改装工事が施されている が、主力は明らかに京浜東北線のATC化ではじき出された初期形である。買収以来、 仙石線は東京で働き疲れた中古電車の墓場に終始しているのである。

       しかし仙石線ほど輸送需要の旺盛なJR地方線も少ない。沿線は高城町あたりまで 仙台のベッドタウンが点在し、また多賀城、塩釜、矢本など地方工業都市が立地して いる。30年ほど前になるが、朝の松島海岸駅で上り電車の混雑に驚かされた。単線 なので下りを犠牲にして上りの続行運転をやっていたが、山手線も顔負けのラッシュ であり、20m車でも4両編成では輸送力不足の感を深くした。何と今でも4両編成な のである。その後東塩釜まで全線の3分の1が複線化され、この区間は大幅に増発さ れたが、松島海岸まで複線が届くのはまだ先のことであろう。
       通勤以外の輸送需要も旺盛なものがある。「うみかぜ」なる快速電車が日中ほぼ1 時間ヘッドで設定されており、2000年3月ダイヤ改正で大部分が矢本以北各停とな ったが、それでも全線50.3キロを57分で走破する。3分の2が単線という条件下で 中央線の特別快速並みのスピードは立派といえよう。ノンストップの便もある。
       これも20年以上前のことだが、移築前の旧石巻駅の玄関に長いテントが設置して あった。朝9時過ぎのノンストップ快速仙台行に乗ろうと駅にやって来たら、こ のテントの下に長蛇の列ができていた。先頭の人は1時間も前から並んでいたのだ。 この人たちが4扉ロングシートの4両編成に詰め込まれて仙台まで揺られるのは、何 としても気の毒であった。この状態も未だに改善されていない。

       とかくJRの地方線のサービスはきめが粗いが、仙石線も例外ではない。サービス の質、量いずれも需要にマッチしていないのだ。
       それでは、もしも国鉄に買収されず、私鉄のままであったら、今どうなっていたか、 ここから空想が始まる。しかしこれは単なる空想ではない。そのまま現在の仙石線に 対する私の改善提案なのである。


    経営と列車設定

       空想の一つのよりどころはアナロジーである。買収されなかった有力地方私鉄とし ては長野電鉄、富山地方鉄道などがあげられる。しかし仙台は長野、富山にくらべは るかに大都市であるし、また戦前における宮城電鉄の私鉄としての積極性も段違いで あった。むしろ、規模、雰囲気の違いに目をつぶるなら西鉄大牟田線あたりが類推の 対象となろうか。
       いま一つの拠り所は、買収前の姿からの外挿である。宮城電鉄の場合は進取の精神 と積極経営が外挿の拠り所といえよう。

       経営は早期に多角化していたであろう。不動産事業すなわち宅地造成・住宅建設、 松島・奥松島を中心とした観光事業、デパート・スーパーストア事業は当然と考える べきである。松島の観光船会社は傘下に入っていたにちがいない。さらに仙台かいわ いのバス事業も系列化されていれば、西鉄顔負けのバスネットワークを構築していた 可能性がある。
       仙台地下駅は2線に線増され、さらに西方、青葉山のふもとまで複線の地下鉄道と して延長されたと考えたい。ただし全通は戦後かなりたってからであろう。地下駅は 例えば仙台のほか仙台中央、仙台青葉の計3駅、名実ともに日本最古の地下鉄の栄誉 を与えられるべき線区である。これ以外の新線開通は考えにくいが、高城町以南の各 駅と野蒜、矢本・石巻間の各駅のホームは6両編成分の長さに延長され、それ以外の 交換駅の側線有効長も6両分に拡張されている。東塩釜までの複線化はまちがいなく 実現しているはずだ。矢本、石巻間の複線化は進行中ということにしようか。

       列車種別は、西鉄大牟田線に似た特急、区間急行、普通の3種構成を想定する。

       全線を毎日運転される定期特急は特別料金不要とし、主要都市間の速達サービスを 行う。停車駅は本塩釜、松島海岸、野蒜、矢本。ダイヤは新幹線との接続を考慮する。 車両は2扉転換クロスシートの専用20m車による6両編成、間合い運用で矢本・石 巻間普通電車にも入って地元の客を喜ばせるであろう。
       宮電伝統の観光特急は不定期とし、座席指定特急料金を設定、季節の休日には大増 発する。これにはしゃれた愛称がほしい。ハイカラなカタカナ名前はどうか。例えば 「ラ・メール」とか。車両は定期特急の車両に椅子カバーをかけ、ヘッドマークをつ け、ガイドガール、車内販売が乗務する編成でイメージを定着させ、さらに専用の展 望車編成も建造して人気をあおる。

       急行は区間運転で、多賀城、塩釜地区と仙台とのインタアーバンサービスのほか、 塩釜、高城町間の普通電車の役割をはたす。停車駅は陸前原の町、多賀城、西塩釜、 以遠各駅停車で高城町まで。車両は普通電車と共通の20m3扉ロングシート車6両 編成とする。冬の仙台には4扉車は向かないのである。
       仙台地区の普通電車は東塩釜まで。複線区間でフリークエントサービスを行う。車 両は上述の20m車6両編成を用いる。
       高城町・石巻間には20m車4両編成による普通電車を設定する。高城町で急行に 接続するローカル電車。特急とは好対照ののどかな電車となろう。名車801形の残党 による5両編成も投入される。国鉄買収がなかったら計画どおり24両が建造された であろうから、永く生き残ったにちがいない。ただし、防火基準を満たさないため仙 台地下線には入線できなくなっている。
       矢本以北には石巻地区の区間運転を増発する。20m車4両編成とするが通勤・通学 時には2両を増結する。


    車両のイメージとその根拠

       次に車両がどんなものとなったかを考えてみたい。小生のような車両ファンには最 も楽しいことである。

       特急用車両は単なる観光用ではなく日頃の足を兼ねるから、快適性と実用性との両 立を要求される。仙台地区の冬の寒さを考えると東北本線の客車のような両端デッキ 式も良いかもしれないが、ラッシュ時の乗降のスムーズネスに問題が残る。ここでは ドアがやや中央に寄った2扉転換クロスシートの20m車、例えば近鉄2200新系の近 代版を考えたい。地下線乗り入れを考えると屋根は浅く、正面は貫通式が良い。また 観光特急としても用いられるから、窓は上下に思い切って広くし、窓柱は細くする。 何のことはないモハ801形の近代化発展版だ。6両固定編成とし、タンク式便所を設 ける。

       急行・普通用車両は3扉ロングシートの20m車、要するに西武鉄道で一時期に標 準となったスタイルが適当である。ニューヨーク地下鉄に見られるドア間に背中合わ せのクロスシート1組とロングシートを配した方式もおもしろい。JRや大都市私鉄 に氾濫している4扉ロングシート車は、宮電には適当でない。誇り高き地方都市には 巨大都市の移動ベンチはふさわしくないのである。地下線乗り入れのため正面は貫通 式とする。編成は6両、4両及び2両固定編成の使い分けとなろう。

       看板となる観光特急車両は伊豆急リゾートライナークラスの楽しい電車がほしい。 前面展望は必須であるが、これと地下線のための正面貫通構造をどう両立させるかが 問題だ。実用性と両立するすぐれたデザインの電車がうまれたと考えたい。

       801形以降の車両をかなり断定的に20m車と考えた。これは車両の戦後史をどう想 定したかにかかわる。
       宮城電鉄の車両のモータ、制御器、ブレーキなどは米国ウェスチングハウス社製の 輸入品から出発した。当時最先端のものであり、1500ボルトを採用するにはこれが 唯一の選択であった。
       ウェスチングハウス社の技術は三菱電機によって国産化され、わが国の私鉄に多大 の影響を及ぼした。小田急、近鉄(大阪線)、西鉄など、三菱製の電機部品を拠り所 に高性能の電車を走らせた私鉄は数多い。一般に電鉄会社は電機メーカを変更せず永 く付き合う傾向があり、こうした私鉄では今でも三菱電機との縁が深い。
       宮電801形も同社のHL制御器を装備していた。低電圧電源を使わず1500ボルト 高圧の分圧により低圧電気を得る形式、かつ手動加速であり、間接総括制御器として は最もシンプルなものであったが、極めて丈夫だったらしい。モータの出力は約60kw と、小田急開通当時のローカル用電車と同じで私鉄最小クラスであったが、海岸の平 野が主で連続勾配区間がなく、木造のトレーラが多かった宮電ではこれで十分だった のであろう。
       こうした状況を踏まえて、戦後の宮電の歩んだ道を想像したいのである。

       戦後の新車は恐らく当時の運輸省規格形の17m車となったはずだ。貴重品だった ガラスを倹約するため、窓のせまい陰気な規格形車両があちこちの私鉄で量産された 時代である。しかし、この車両の制御器はHLではなく、同じ三菱電機のABF制御 器を採用し、モータも90kwクラスにパワーアップされたと考える。単位スイッチ式 自動加速で弱め界磁制御を備えた高性能制御器と中出力モータとの組み合わせは、小 田急で1943年より採用されて大成功をおさめ、1954年まで量産されてスピードアッ プと標準化に貢献した。これに背を向けてHL制御器の電車を作り続けた長野電鉄の ような地方私鉄もあるが、意欲的な宮電が新型を採用しないわけがない。一方、近鉄 のようなABF制御器と150kwの大出力モータとの組み合わせによる超高性能電車 は、線路の平坦な宮電には必要なかったであろう。
       1950年代になると車体のデザインは洗練され、窓の広い明るい電車に戻ったであ ろう。車体長は18mに延長された。そして1950年代後半に、制御器、モータに革命 的な変化が生じたのが確実である。

       1950年頃から、主として米国の技術の導入により日本の電車の制御器、モータ、 ブレーキ装置の技術が大幅に変化した。宮電も当然この流れに乗ったはずである。
      最大の変革はモータまわりに生じた。従来の釣り掛け方式から脱却し、高速、小型、 軽量のモータを台車枠に装着し、自在継ぎ手を介して車軸に伝える新方式が爆発的に 普及したのであった。1個あたりの出力は約75kw程度に抑えられ、編成の全車を電 動車とするようになる。
       駆動力をモータから車軸へ伝達する自在継ぎ手の構造として、2つのジョイント (後には2組の板ばね)と長い中間軸を用いるカルダン駆動と、特別な歯車継ぎ手を 用いるWN駆動の2種が競争したことはよく知られている。宮電は後者を採用したで あろう。WNのWはこれを実用化したウェスチングハウスのイニシャルであり、この 方式は三菱電機によりわが国に普及されたのだから。
       わが国におけるこうした新方式の実用化は私鉄とメーカとの協力によるところが 大きい。なかでもWN駆動はモータ軸と車軸を平行に配置できるので歯車伝達部が単 純であり、またモータ軸に中空軸を用いる必要がなく保守上でも優れているので、多 くの私鉄が興味を示したが、カルダン駆動にくらべ高級な技術を要するためスタート は2年ほど遅れた。しかし最終的には新幹線の車両に採用されている。
       WN駆動は1953年に京阪電鉄で試作車を運行、続いて1954年初頭の営団地下鉄丸 の内線開通に伴い大量導入された。電気ブレーキを常用し、また乗客の多寡を検出し てブレーキ力を加減する近代的なシステムもこの車両で採用されている。当初不可能 といわれたWN駆動の狭軌車両への採用は、その後1956年に富士山麓電鉄(現富士 急行)で55kwの小型モータを用いて実現され、翌1957年には当時標準的であった 75kwモータを用いたWN駆動の電車が長野電鉄に導入された。国鉄がこうした新方 式の電車(平行カルダン駆動)を試作したのはやっとこの年であった。私鉄で新技術 が花開いたのを見届けてから重い腰をあげたのである。
       これに伴い制御器も進歩した。抵抗制御の多段化と発電制動の常用化である。AB FはABFM(M=Multi)に改良され、WN駆動と組み合わされて多くの私鉄に名車 を生んだ。宮城電鉄にもそれらの兄弟が出現したに違いない。

       これに続いて車体の大形化が行われたはずである。
       日本最初の車体長20mの電車は1928年に大阪鉄道(現近鉄南大阪線)に導入され た。国鉄(横須賀線)にくらべ2年早い。近鉄(上記及び大阪線)、南海電車(本線) は戦前、戦後を通じて長距離、急行用に20m車を活用してきた。とくに狭軌かつ架 線電圧600ボルトと最悪の条件だった南海が堂々たる800馬力車を、しかも時には冷 房装置まで装備して運転したのは立派である。

       戦後新たに20m車を導入した東武、西武、小田急、相模鉄道、山陽電鉄の場合は、 終戦直後の混乱期に強行した国鉄の廃車、戦災車、事故車の応急修理による導入、ま た車両不足救済のため割り当てられた国鉄モハ63形20m車の入線に合わせて行われ た地上施設の改良が発端となっている。とにかく質より量、バラックでも大きな電車 は客を大勢詰め込むことができて重宝だったのだ。名鉄も63形の割当を受けたが、 名古屋地下線の限界拡大があまりにも大仕事なので導入をあきらめ、東武、小田急に 売却してしまった。
       1960年以降になると、東急、京王、近鉄奈良線、南海高野線など地上施設に恵ま れない私鉄にまで通勤用20m車が普及する。また地方私鉄にも波及して行く。上記 の富士山麓電鉄のWN駆動車は地方私鉄の20m車の先駆であった。1966年には長野 電鉄に本格的な4扉ロングシートの20m車が登場している。

       では宮電は? 名古屋鉄道と同じく仙台地下駅をもつから幅の広いモハ63形の導 入はなかったであろう。しかし南海よりは架線電圧が高く、地上施設の質も問題が少 ない。さらに仙台市域の発展とともに通勤輸送の需要はどんどん増加するから、1960 年代のある時期には新造20m車の本格導入が始まったはずである。
       これとともに、相模鉄道で大規模に行われたような旧形電車の新製20m車体への 乗せかえによる輸送力増強があったであろう。戦前製の801形はモータ出力が小さく、 制御器も古風で残念ながら20m車化には向かないが、後継モデルと考えた90kwの釣 り掛け式モータをもつABF車が立派に20m車化できることは小田急が4000形で証 明している。
       このように、私は宮電に20m車が出現するのは必然と考えるのである。


    特急用の車両

       つぎに、宮電のシンボルとなったであろう特急用車両について考えてみたい。

       戦後、特急電車運転のトップを切ったのは戦前から多数の長距離急行用車を保有し ていた近鉄であった。標準軌の大阪線の2200系と狭軌の名古屋線の6300系を乏しい 資材をやりくりして特別整備し、クリームとライトブルーに塗り分けて、1947年10 月より特急運転を開始した。1953年には特急用新車2250形が建造されている。
       スタートが近鉄にやや遅れた小田急の特急は、しかしより華麗であった。1948年 6月に東急から分離独立した小田急は、早くも10月に新宿・小田原間ノンストップ の週末特急を運転した。車両は戦中のロングシート車1600形であったが、やはり新 車同様に整備されたという。1949年には運輸省規格型ながら2扉セミクロスシート の車両が新製され、喫茶カウンタの営業も始まった。1950年には箱根湯本に特急、 急行を乗り入れ、そして1951年に、特急専用のロマンスカー1700形がデビューし、 特急の座席指定制が開始されている。翌1952年の早春、富士山のくっきり見える快 晴の日、私は家族旅行で1700形に乗車した。汚れたロングシートの電車しか知らな い小学5年生にとって、転換クロスシートの車内は驚異の一語であった。
       一方、戦後の地方私鉄で最初に転換クロスシートの本格的な特急専用車を実現した のは長野電鉄であったと思われる。上記の1957年の本格的WN駆動の新車が実はこ れであり、新設の志賀高原行き特急は好評を博して、現在にいたるまで同社の名物と なっている。1962年に私が初めて乗車したときの特急料金は30円であった。別に特 別料金不要の急行も存在したが、ロングシートの旧車を用いた、ただ止まらないだけ の鈍速であった。
       宮電も1960年頃には特急専用のクロスシート車を建造して有料特急を運転し、こ れとは別に在来車による急行を設定していたと考える。

       1968年、東北本線の全線複線化・電化に伴う、いわゆるヨンサン・トウ改正は東 北地方の国鉄各線の大脱皮の機会となった。仙台・上野間特急「ひばり」は増発され、 またその最高速列車は最高速度120km、表定速度89.7kmとなって、国鉄在来線の最 高速列車の栄誉を以後10年間保持することとなる。一方、仙石線にはすでに快速電 車が設定されていたが、このとき目立った改善がなく、幹線偏重の国鉄にいきどおり を感じた記憶がある。もしも私鉄であったら、特急はつかり、やまびこ、ひばりを受 ける特急・急行電車の増発があったにちがいない。

       そして1982年の東北新幹線の大宮ー盛岡間開通に伴い、私鉄宮電は大キャンペー ンを張ったであろう。有料の観光特急・一般の定期特急・区間急行・各停・ローカル といった現代的な体制はここで導入されたと考えられる。
       この当時は日本の私鉄の低迷期であり、特に車両面での改良には見るべきものが少 なかった。しかし近鉄の新型2階電車 30000系はすでに出現しており、また小田急 の新型前面展望車7000系が就役したのがこの年である。運転台を2階に追い上げた 前面展望車は1961年の名鉄7000形以来すでに20年の歴史をもち、地方私鉄でも長 野電鉄はすでに1964年に前面展望車を計画したという。したがって、沿線の景色が 売り物の宮電が前面展望車を導入するのに抵抗はなかったであろう。さらに、伊豆急 が「乗客を目的地に運ぶ道具という観念を捨て、乗ることを楽しめる車両を」という コンセプトのもとに2100系リゾートライナを建造したのは1986年であった。戦前に すでに展望電車を運転した宮電がこれを先取りし、低迷していた日本私鉄界にカツを 入れたのでは、と考えるのも楽しい。


    おわりに

       さて、ここで現実に立ち戻りたい。

       上記のことは全くの空想であった。しかしまんざら外れてもいないのではないだろ うか。民間会社は時代に合わせて進歩するか消え去るかの二者択一であり、停滞は許 されない。そして、買収前の宮城電鉄の状況を外挿し、また仙台地区のその後の発展 を考慮すると、宮電が消極経営のあげく消え去ったとは考えにくいのである。
      これに比べ、現在の仙石線の停滞が目に余るのである。JRになってからはそれで も少しづつ変化しているようだが、やはり私鉄的活性化からはほど遠い。他線とのバ ランスなどの思惑を排除し、独立独歩で積極経営をすすめることがぜひ必要と考える。 かなりの投資をしても、新たに地下鉄を建設するよりは安いであろう。
      その結果、仙石線はJR東日本のドル箱となるかも知れないのだ。