音響情報システム研究分野(鈴木研究室)の系譜
2.二村研究室の時代(1955-1980)
 抜山教授は多くの後進を育てましたが,そのうちのひとりが,1955年に電気工学科助教授から教授に昇任した二村忠元教授です.二村教授は,電気工学科の第1講座であった電気理論講座を担任しました(東北大学電気・情報系の学生なら,丸善の通称青本シリーズ「電磁気学」を思い出していただけるかもしれません).
 二村教授と音響学の出会いは,1940年3月に京都大学工学部電気工学科卒業後,東北大学電気通信研究所で抜山教授の指導の下,速度型水中マイクロホンの研究に携わったことです.そのマイクロホンの形を球形から回転楕円形にすることを発想,その理論解析が始まります.この研究である回転楕円体関数を用いた音場の理論解析は大変有名です.当時,数値計算を行うには,タイガー計算機と呼ばれる手回し計算機が必須でした.1941年に京城帝国大学理工学部助教授として着任の後,戦後の引きあげの際に,手に持てるだけの荷物だけしか許されなかった中,他の生活用品を犠牲にして,この重い計算機を持ち帰ってきたということです.二村教授は,1951年,この研究により東京大学から理学博士の学位を取得しています.その後,城戸健一助手/助教授(後に電気通信研究所教授)らとダイナミックスピーカーの改良,スピーカアレイの設計法,残響可変装置,電気的な残響付加装置など先進的な研究に取り組みました.二村教授は室内音響設計にも積極的に取り組んでいます.代表的なものだけでも,CBCホール,名鉄ホール,杉並公会堂,札幌市民会館など,また仙台市内では,電力ホール,東北大学川内記念講堂,宮城県民会館,仙台市民会館などがあげられます.
 城戸助教授が電気通信研究所教授に昇任した後は(1963年4月),曽根敏夫助手/助教授 (後に通信工学科教授,電気通信研究所教授を経て現在,秋田県立大学教授.東北大学名誉教授.後述のように,筆者の前任者),津村尚志助手(後に九州芸工大助教授・教授),香野俊一助手(電気通信研究所助教授等を経て現在,東北文化学園大学教授),江端正直助手/助教授(熊本大学助教授・教授を経て現在,熊本電波高専校長),松本弘助手(信州大学助教授を経て現在,教授)らのスタッフと,電子楽器の設計法,スピーカや楽音の音質評価法,両耳聴や音の高さなどに関する基礎聴覚,騒音制御・評価法,音声自動認識など幅広い分野の研究を行いました.これらの中には,いまでも関連研究から引用が行わ れる基礎論文がいくつか生まれています.例えば,音色知覚の基本的な3要因に関する研究や,両耳効果(カクテルパーティ効果)の音場での広がりを初めて定量的に測定した研究などが代表的なものといえるでしょう.
 特に,1970年ころから開始された環境騒音に関する研究では大きな成果を挙げました.新幹線騒音の環境基準決定への貢献や,学術会議による環境騒音の危険性に関するアピール,等価騒音レベルの重要性を早くから主張していたことなどは特筆される成果といえるでしょう.
 このように二村教授は,音響学の広範囲にわたって精力的な研究を進めていました.日本音響学会の副会長(1971-1973),会長(1977−1979)†を歴任したのも,このような背景を考えれたば自然ななりゆきだったといえるでしょう.また1975年には仙台で,騒音に関する総合的な国際会議である internoise75を仙台で開催.これが契機となって,1976年に日本騒音制御工学会が創立されると,初代副会長,そして後に会長(1980-1982)を務めます.また,1955年には「拡声器」「室内音響」「騒音防止」に関する業績により河北文化賞を受賞しています.
 二村教授は1980年に停年退官,東北学院大学工学部に着任しましたが,惜しくも1982年12月に,当時,東北新幹線の始発駅であった大宮駅で亡くなりました.新幹線の騒音問題に打ち込んでいた二村先生の早すぎる死でした.
 なお1963年に電気通信研究所の教授に昇任した城戸は,音響通信研究部門を担任することになります.その伝統は,城戸教授の元で助手・助教授を務めた工学研究科の牧野正三教授に引き継がれています.さて,城戸が二村研究室の助教授を離れた後,その助教授に就任したのは,かつて筆者の直属の上司であった曽根敏夫です.かれらは当然,二村教授の兄弟弟子ですので,牧野研究室と当(鈴木)研究室は,いわばいとこ同士といえることになります.

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