音響情報システム研究分野(鈴木研究室)の系譜
曽根研究室の時代(1980.4-1999.3)
 1980年3月二村教授退官,4月から曽根研究室が名実ともに誕生しました.その1年後,1981年4月には通信工学科教授であった曽根敏夫教授は電気通信研究所の教授に転任し,音響通信部門の担任となります.電気通信研究所における曽根研究室の誕生です.
 このときのスタッフは,電気工学科から転任した香野俊一助手(電気通信研究所助教授,鶴岡高専教授を経て現在,東北文化学園大学教授)と,そのときちょうど博士課程を修了して助手となった筆者,技官の斉藤文孝,それに工学部で曽根教授の初代秘書を務めていた阿部ゆみ子でした.この後,曽根教授秘書は,比較的短期間の間に阿部から,伊東典子,小野寺こずえと代わり,1986年からは八代幸子が,停年退官までの間,教授秘書を務めることとなります.八代は在任が長かったこともあり,研究室の雰囲気づくりと伝統の継承に大きな役割を果たしました.
 この時代,騒音の影響評価と制御に関する研究に多くの力を注いでいました.例えば,環境騒音による個人ごとの騒音暴露量の評価,衝撃騒音の評価法の開発,ジェット機騒音のように卓越した純音成分を持つ騒音の評価法の開発などです.衝撃騒音の研究では,全国の関連研究者との共同研究なども活発に行われました.仙台電波高専の熊谷正純助教授(現在同教授)は,自称「曽根研非常勤助手」として(公式には内地研修員という立場で)週に1〜2日を曽根研空室で過ごし,衝撃騒音の研究をはじめとして大きな役割を果たしています.このころのちょっと変わったテーマとしては,20kHzを越える超音波の聞こえ(骨伝導なら聞こえるのです)や,自分の発生する声の聴力保護効果などがあ ります.
 曽根研究室創設のころから,ディジタル信号処理とその応用に関する研究も開始されました.例えば,頭部伝達関数の模擬手法や,それを用いた音像定位制御法の研究などです.東芝の32ビットミニコンピュータDS600が導入され,ディジタル信号処理の研究効率が大きく向上しました.純正では12ビットまでのAD,DA変換器しかなく,また,多ビットの基板を東芝に開発してもらう予算などは到底なかったことから,東芝にインタフェース条件を開示してもらって,15ビットAD変換器と16ビットDA変換器を筆者が設計,大学院生と手作りしたのもよい思い出です.このAD,DA変換器は,サンプリング周波数100kHzで,AD, DA変換が,同時かつ完全同期でできるという優れもので,このコンピュータは,この後しばらく曽根研究室の中核研究設備として活躍することになります.
 1985年になると,等ラウドネスレベル特性に関する研究が開始されました.等ラウドネスレベル特性とは,人間の聴覚感度の周波数特性を示すもので,ISO 226として国際規格にもなっているものです.ところが,この規格には大きな誤差があることが判明したことから,国際的な共同研究として,このISO226を全面的に改定することを目指した研究が開始されたのです.この研究には,当初は熊谷教授が,その後は,竹島久志仙台電波高専助手(その後講師を経て,現在助教授)が共同研究者として大きな貢献を果たしています.この研究は,鈴木研究室にも引き継がれる息の長い研究となりました.
 1987年には香野助手が助教授に昇任,同年には筆者も大型計算機センター助教授に昇任しました.筆者は,根元助教授(後に教授.現在,情報科学研究科教授)ら同僚の暖かい理解と建物が続いていたという好環境もあって,曽根研究室と密接な共同研究関係は保っていたものの,研究室を一旦離れた形となりました.そんな中,1988年には修士課程を修了した小澤賢司が助手(その後助教授を経て,現在,山梨大学工学部助教授)として研究スタッフに加わり,音色の研究を中心に活躍しました.なお,香野助教授は1989年4月,鶴岡高専教授として研究室を離れ,その7月には筆者が電気通信研究所の助教授に転任し 曽根研究室に戻りました.
 音色は,曽根教授が大学院生時代から取り組んできた研究テーマです.音色を言葉で定量的に表現しようとの二村研究室の研究は当時世界最先端のもので,ここで明らかになった音色の3要因は,時代を超え世代を越えて安定な要因であることが示されるに至っています.曽根研究室では,この音色知覚の背景にある聴覚系内の信号処理過程に研究の勢力が注がれました.特に,音の物理的なスペクトルが,音色を決定する主観スペクトルに変換される過程で,マスキング(ある音の存在によって他の音が聞きづらくなる現象)現象が果たす役割の研究は特筆されます.また,音色と密接に関係している,楽音の音の高さ (ピッチ)知覚過程の研究も興味深いものです.
 このように,聴覚の基礎的な情報処理過程の解明は,曽根研究室の研究の大きな特徴をなすものです.この分野では,他に音像定位過程に関する研究も忘れてはならないでしょう.ディジタル信号処理を駆使して頭部伝達関数(HRTF)の合成を行い,これが音像知覚に果たす役割を明らかにしようとした研究を始め,複数音像の相互作用,移動音像の知覚など様々な研究を,世界に先駆けて行ってきました.
 1980年代の後半になって,音響学会誌に掲載された,音響系の伝達関数をディジタル信号処理によって模擬するための信号処理法に関する論文が,東北大学耳鼻科の高坂知節教授の目にとまります.補聴器にディジタル技術を導入することの重要性をこの時点で既にみぬいていた高坂教授は,この論文で,学内に音響信号ディジタル信号処理のスキルを持つ研究グループがあることを知り,曽根教授に共同研究の申し入れを行います.曽根教授はこれを快諾,1988年には高坂教授が獲得した厚生省科研費により,AD,DA変換器を備えたコスコンプの実時間UNIXシステムも導入されて共同研究が本格化します.この当時,大学院後期課程の浅野太(後,1991年から助手.電子技術総合研究所を経て現在,産業技術総合研究所主任研究員)が前期課程で取り組んだ音像定位から大きくテーマを変更してこの研究に取り組み,感音性難聴者のラウドネス補充現象を実時間で精密に補償することを特徴としたディジタル補聴アルゴリズムが開発されました.このディジタル補聴器は,CLAIDHA(Compensating for Loundessrecruitment by Analyzing the Input, Digital Hearing Aid,クレイダ)と名付けられ,科研費などによる試作を経て,1995年8月には全ての信号処理をディジタル化した補聴器としては世界で最初に市販されるに至りました.現在,多くのディジタル補聴器が市場に出回り,そのほとんどがラウドネス補償を基本 的な補聴処理として採用していることをみると隔世の感があります.
 ディジタル補聴器に関する研究は,1990年代の曽根研究室の最も重要な研究プロジェクトとなってゆきました.耳鼻科のスタッフとの緊密な共同研究体制のもと,ハウリング抑圧,騒音抑圧などの次々世代の補聴器のためのアルゴリズム開発の他,難聴者の基礎的な聴覚特性や,難聴者の音声聴取能力の評価法など多くの関連研究が行われたのです.これらの研究テーマは,鈴木研究室にも引き継がれています.
 曽根研究室後期には,音場の精密数値計算法の研究も勢力的に行われています.主に境界要素法(BEM)を用い,壁面の音響的な性質を定式化することにより,3次元音場の伝達関数を精密に求めるための理論解析やアルゴリズム開発が行われました.また,3次元音場に関しては,キルヒホッフ・ヘルムホルツ積分方程式に基づく制御を行うことにより精密な音場情報を提示する聴覚ディスプレイが発案されたのもこのころです.このシステムはその後「仮想球モデル」の着想により実現が可能な見通しとなり,鈴木研究室の研究テーマとして引き継がれました.これらの研究には,1991年に修士課程修了とともに助手となった高根昭一助手(現在,秋田県立大学助教授)が大きな貢献を果たしています.また,建築音響関係では,二村研究室時代からと同様,地方自治体が建設した多目的ホールや音楽ホールの音響設計のお手伝いをたくさん行っています。代表的なものとして,多賀城文化センター盛岡市民文化ホール(マリオス)を挙げておくことにしましょう。また,仙台市旭ヶ丘の青年文化センターの建設にあたっては,ごく近傍を通過する地下鉄の振動をしゃ断するための対策を担当しました。このホールでは,曽根研究室が提案した斬新な構造が採用され,ホール全体が周りの外壁から完全に振動しゃ断された形の浮き構造になっています。このような建築音響設計や騒音振動対策に重要な役割を果たしたのは,斎藤文孝技官です。斎藤技官は,その的確な対策案立案能力から,「1dB(デシベル)の斎藤」という異名をとっていたのです。この異名は,氏による音や振動レベルの予測値が1dBと違わないことがしばしばだというのがその由来です。これがどれほどすごいことなのか,音響測定や騒音振動対策に携わったひとなら,誰でもお分かりのことでしょう。
 1990年に城戸教授が停年退官すると,曽根教授は,城戸研究室の助手から大型計算機センターの助教授となっていた安倍正人助教授(現在岩手大学工学部教授)とアクティブ騒音制御分野の研究を開始.この分野でも大きな成果を挙げることとなります.1998年には,大型計算機センター助手であった陳国躍氏が曽根研究室の最後の助手となりました.
 なお,1994年には大きな組織上の変革が二つありました.まず,電気通信研究所が大幅な改組を行い,それまで20の研究部門からなっていた組織を変更,3つの部門から構成される大部門制に移行したのです.これにより,曽根研究室は,長年慣れ親しんだ「音響通信研究部門」から,ブレインコンピューティング研究部門の「音響情報システム研究分野」に呼び名を変えました.また,この年には,大学院情報科学研究科が創設されています.これにより,それまで工学研究科の協力講座であった曽根研究室は,情報科学研究科の協力講座「音情報科学講座」となりました.
 なお,電気通信研究所の改組によって新設されたマルチモーダルコンピューティング客員研究分野の初代客員教授として,1995年9月から1996年12月までの間,ポーランドのポズナン大学からEdward Ozimek教授が着任,曽根研究室と時間変動音の知覚に関する共同研究を行いました.外国人の研究者を長期にわたって受け入れたのは,われわれにとって初めての経験であり,様々なとまどいをうみつつもよい経験をもたらしてくれました.また,1997年4月から9月までの6ヶ月間には,第2代の客員教授(職制上は助教授として任用)米国ボストンのノースイースタン大学からRhona Hellman助教授が着任,仙台電波高専の竹島氏とも連携して等ラウドネス特性に関する共同研究を行い,大きな成果 をあげました.外国人研究者との共同研究には興味を同じくすることが極めて重要であることを学んだのもこのときです.
 この間,曽根教授は1994年に大型計算機センター長に就任,1998年までの2期4年にわたり,この要職を努めることになります.曽根教授の任期の間には,東北大学のコンピュータネットワークTAINSがsuperTAINSとして一新されたり,大型計算機センターが片平から青葉山キャンパスに移転するなど,大きなできごとが目白押しにおきたのでした.
 以上のように,曽根研究室では,音の大きさ(ラウドネス),高さ,音色,音像定位などに関する聴覚の基礎的な情報処理過程の解明と,ディジタル補聴器,3次元音場ディスプレイ,アクティブ音場コントロール等,聴覚系の深い理解に基づく工学システムの実現,の両面にわたって精力的な研究を行い,大きな成果を挙げました.このように曽根教授は,音響学の広範囲にわたって精力的な研究を進めていました.学会活動においても,日本音響学会の副会長(1991-1993),会長(1993-1995)を歴任,騒音制御工学会でも副会長(1990-1992)を務めています.1994年には,1975年に仙台で開催されたinternoiseが19年ぶりに日本(横浜)で開催されましたが,曽根教授はこの国際会議internoise 94の実行委員長(General Chairman)を務めています.この国際会議には助教授であった筆者も事務局長(Secretary)として参画,助手・大学院生・非常勤職員らの全面的な支援のもと,いわば研究室の総力をあげて 準備と運営に携わったのでした.この他にも,国際騒音制御工学会理事,西太平洋地区音響学委員会副委員長などを努めるなど,国際的にも指導的役割を果たしたのです.このような業績により,日本音響学会佐藤論文賞を2度にわたって受賞,更に,1998年には,「音の知覚と地域音環境改善に関する研究における功績」に対し,第47回河北文化賞が贈られています.
 こうして音響学の発展に大きな貢献を果たした曽根教授は,1999年,停年により退官,このとき創立された秋田県立大学の招へいをうけ,同大学に学科長・教授として赴任したのです.


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